【連載】「作曲家をめぐる〈愛のかたち〉第2回」(新日本フィルハーモニー交響楽団 2003年11月号)

プログラムエッセイ

表明される愛

音楽は、本質的に抽象的なものである。いくら音で描写しても、概念が明確に固定されないのだから、印象も固定されない。作曲家がこんな感動を与えたいと思っても、聞き手の方では全く別な風に受け取るかもしれない。そのあたりが、絵画や文学とは違う点だ。

にもかかわらず、テキストをともなわない絶対音楽で、特定の感情や情景を描写したいという衝動にかられる作曲家は多い。いわゆる標題音楽というヤツで、ベルリオーズ『幻想交響曲(1830)、リムスキー・コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』(1888)、ツェムリンスキーの交響詩『人魚姫』(1903)・・・といくらでも浮かんでくる。

それぞれの〈愛のかたち〉は微妙に異なっている。『幻想』は思いこみの激しい主人公の一方的な愛だし、『人魚姫』は、思わせぶりな王子にふりまわされる妖精の哀しい物語。『シェヘラザード』は、女性不信に陥った男が、話上手な女性の母性愛で癒される話。

ここで問題になるのは、まず第一に、作曲家の描いたプログラムを聴衆がどこまで察知できるのか、ということ。次に、そもそもそうしたプログラムを知ることが音楽の鑑賞にどこまで必要なのか。つまり、折角言葉を離れて「ふわふわしたもの」を聴衆の中に生じさせたのに、どうして、また言葉にひき戻す必要があるのか、ということだ。

ベルリオーズは、音楽の自発的な喚起力にはあまり期待していなかったようだ。オペラで成功することを夢見ていた彼は、交響曲の場合でも、自分の想定したプログラムが事前に聴衆に理解されていることを望んだ。「器楽によるドラマの筋立てというものは、言葉の助けがないのだから」という表現から、彼にとっての音と言葉の位置関係がわかる。

とはいえ、作曲者の意図とは違う物語を想像することもまた可能である。フランスの幻想文学評論家マルセル・シュネデールは、1975年、ローラン・プティのバレエ団から『幻想』の粗筋を依頼された。ベルリオーズのプログラムの敷き写しではないものを、しかし、スコアにのっとり、音楽のイメージにあくまでも忠実なもの、という注文つきで。

シュネデールは、「固定楽想」があらわすものを、ハリエット・スミスソンを想定した「恋人」ではなく「想像力」に置き換えることにした。主人公は、『幻想』の続編のモノドラマ『レリオ』から借りてくる。若い芸術家のレリオが、彼をそそのかす「想像力」の悪魔と格闘するという筋立てである。ところが、第4楽章の「断頭台への行進」だけはあまりに特徴がありすぎるため、オリジナルの台本に戻らざるをえなかったという。

リムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』も標題音楽だが、ベルリオーズのように厳格なプログラムに添って書かれたというわけではなさそうだ。作曲者自身、「逐次的な描写にこだわるものではなく、聴衆が思いおもいの幻想を探りあてるための手がかりになる標題を与えたにすぎない」と述べている。

シェヘラザートのモティーフとツェムリンスキー『人魚姫』のモティーフは、いずれも独奏ヴァイオリンで奏でられる。人魚姫の方は、夢見る夢子さんといった風情で、ひたすら憧れをもって上昇する。少女マンガで目にお星さまがはいっている女の子みたいで、こんなにおぼこでは裏切られるのも当たり前、という気がしてくる。シェヘラザードの方は三連音符でアラビア風に唐草模様を描き、人魚姫よりはずっと色ッぽい。王さまは、彼女の話だけではなく妖艶な色香にも惹かれて殺すのをためらったに相違ない。

この作品をパリの万国博で聴き、同じ物語によるオペラを構想したラヴェルは、1903年に歌曲集『シェーラザード』を作曲している。ワーグナー・ファンの詩人、トリスタン・クリングゾルの描くシェエラザードは、19世紀末的倒錯を反映して、少女のように魅力的で優美な「つれなき美男」にそっぽを向かれる。

ドイツの詩人デーメルの詩にもとづくシェーンベルクの弦楽六重奏曲『浄夜』(1899)では、いっぷう変わった〈愛のかたち〉が描かれる。恋人たちが月夜の森を散歩する情景。>母親になりたいがために見知らぬ男の種を宿した女は、おののきながらもそのことを>告白する。すると男は、女を責めるどころか、自分が子供の父親になろうと申し出るのだ。

『シェーンベルク』の著者フライタークは、このプログラムに懐疑的だ。「こうした経過が音楽によって、言葉の助けなしに描き出されるとでもいうのだろうか?」(宮川尚理訳)しかし、虚心坦懐に聴いてみると、音楽は詩に内在するドラマをかなりうまく表現しているように思う。

冒頭部分は、二人の歩みを模したオスティナートに下降形の重苦しい音階が重なってくる。そのモティーフが半音階的にずりあがるところは、ワーグナーそっくり。ついで登場する焦燥にかられたようなモティーフも、ワーグナーそっくり。ここで抑えがたい情念に身悶えしているのは、どうやら女の方らしいのだ。激しい高揚のあと、チェロで奏されるひろびろした旋律は、男の寛大さをあらわしている。その後も各モチーフが対位法的にからみあい、心理的な葛藤が描かれるが、音楽は次第に不思議な光に満たされていく。

「あなたの身籠っている子供を/あなたの魂の重荷としてはならないのです/ごらん、世界はすべてどんなに清浄に輝いていることか!(中略)あなたはこの子供を私のために、私の子供として産むのです」(同前)

男は女の腰を抱き、二人は夜の散歩をつづける。

いいな、こういう男って。女性に袖にされると逆ギレして、作品の中でまで復讐しようと考えるベルリオーズとは大違いだ。

2003年11月18日 の記事一覧>>

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