【連載】「作曲家をめぐる〈愛のかたち〉第3回」(新日本フィルハーモニー交響楽団 2003年12月号)

プログラムエッセイ

嫉妬という名の〈愛〉

初演時には「田園生活の思い出」というタイトルがついていたベートーヴェンの『交響曲第6番』は、作曲家の自然への〈愛〉から生まれた。

かなり好戦的な人間で女好きでもあったベートーヴェンだが、散歩して自然の中に浸っていると、すべての世俗的な葛藤を忘れ、溢れんばかりに楽想が浮かんできた。

「田園」は単なる自然描写ではなく、むしろ(自然に対する)感情の表現だと彼は語っている。

フランスの大作家アンドレ・ジッドは、この自然讃歌を逆手にとって、きわめて人間的などろどろした愛憎劇を描いてみせた。『田園交響楽』(サンフォニー・パストラル)のタイトルは、『田園』と、「牧師(パストゥール)の交響楽」の二重の意味があるという。前者は、ただ光だけの純粋で真っ白な世界。後者は、罪と悪と死の世界。

身寄りのない盲目で言葉も出ない少女ジェルトリュードをひきとった牧師は、ちょうどサリバン先生がヘレン・ケラーにするように、彼女を教育し、感覚を言葉になおす方法を辛抱強く教えていった。ジェルトリュートを音楽会に連れて行く機会を得た牧師は、オーケストラの楽器の音は、それぞれ違って音色を持つことを教え、自然界にも、金管楽器に似た赤やだいだい、木管楽器に似た紫や青、弦楽器に似た黄色と緑があることを教えた。

そして実際に「田園」交響曲を聴いた彼女は、恍惚として「あなたがたの見ている世界は、本当にあんなに美しいのですか?」ときく。「あの小川のほとりの景色のように」。

音楽ファンなら、このときジェルトリュードの中に沸き起こったセンセーションを追体験できるだろう。第二楽章の「小川のほとり」。清らかな流れを思わせる低弦の動き、フルートの夜鶯(ナイチンゲール)、オーボエのうずら、クラリネットのかっこう。思い浮かべるだけで、脳がアルファー波でいっぱいになるようだ。

牧師は困惑する。

「私はすぐには答えられなかった。あのえも言われぬ諧調が、実は世界をあるがままに映し出したものではなくて、もし悪と罪とがなかったらこうもあろうか、こうもあったろうかという世界を描いたものだと、私は思い返したからである」(中村真一郎訳)

やがて、物語は「田園」のこうした諧調から大きく逸れていく。息子が少女に恋をしているのを見て激しい嫉妬にかられた牧師は、息子を遠ざける。すっかり美しくなった娘に惹きつけられていた牧師は、ついに彼女に接吻する。

ジェルトリュードの目の手術は成功し、真実が暴露されるときが来る。視力を得た彼女は、牧師の顔に偽善を、妻の顔に苦悩を見いだす。そして、息子の顔が、自分が思い描いていた牧師の顔だちにそっくりなのを知った彼女は、絶望して入水自殺してしまう。

いっぽうトルストイの『クロイツェル・ソナタ』では、ベートーヴェンの音楽は、悪と罪、肉欲と嫉妬を助長させる恐ろしい道具として使われている。

二昼夜にわたる長い汽車の旅、語り手は車室で同席した白髪の貴族から思いがけない打ち明け話をきかされる。彼は殺人者だった。

貴族の妻は、五人の子を生んだのちに医者から妊娠を禁じられ、若さをとりもどしていた。夫婦仲は悪かったのだが、夫は妻が他の男の目をひくのを見て、心おだやかではない。そこに、一人のアマチュア・ヴァイオリニストがあらわれる。ピアノをたしなむ妻は、彼と合奏をはじめる。音楽夜会で、二人は『クロイツェル・ソナタ』を合奏した。

「あなたはあの最初のプレストをごぞんじですか?」と夫は語り手に問いかける。

「ラララ!ラララ!恐ろしい曲ですね、あのソナタは。(中略)人の話では、音楽は人の魂を高めるような作用をするということです。でたらめです!嘘っぱちです!音楽は作用します、恐ろしい作用をします」(中村白葉訳)

次のせりふが傑作だ。

「いったいこのプレストなどを、デコルテ(胸や腕をあらわにした夜会服)を着た婦人の大ぜいいる客間なんかで、演奏していいものでしょうか!」

絶えず激しくあおりたてる音楽に、作者は不道徳なものを感じとったのだろうか。

『クロイツェル』はすっかり夫を虜にしてしまったが、実際に合奏している二人は、それだけではすまない。普通は、言葉を介してコミュニケーションをとった上で恋愛関係にはいるのだが、直接心に作用する音楽は、そうした垣根を一気にとりはらってしまう。

夜会の二日後、妻をおいて旅に出た夫は、狂おしい嫉妬にとらわれる。そういえばあの二人は、『クロイツェル』のあとで何か小品を弾いていた。卑猥なまでに情熱的な曲だった。音楽を通して語り合う二人の間にはもはや何の障壁もないように、夫には思われた。妻の顔には羞恥の色さえ見えたではないか。

やもたてもたまらなくなった彼は家に飛んで帰り、夫の留守中に男と密会していた──といっても、ただ合奏を楽しんでいただけなのだが──妻を刺し殺してしまう。

この小説を夢中になって読み、殺された妻にいたく同情したのが、チェコの作曲家ヤナーチェクである。彼は「妻に対する男性の専制」に抗議するため、その名もズバリ『クロイツェル・ソナタ』という弦楽四重奏曲をたった一週間で書き上げた。

弱音器つきの三弦で提示される陰鬱な循環主題と、それを勇気づけるようなチェロのモティーフ。第三楽章では、哀れっぽく許しを乞う旋律が、激しくかきならされる弦のパッセージでにべもなくはねつけられる。弦楽器の粘っこさを利用して嫉妬の感情を巧みに表現した音楽心理ドラマだ。

2003年12月18日 の記事一覧>>

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