【連載】「作曲家をめぐる〈愛のかたち〉最終回」(新日本フィルハーモニー交響楽団 2004年7月号)

新日フィル定期プログラム 2004年7月号
プログラムエッセイ  

引き裂かれた愛

オペラの、それも悲劇にみられる〈愛のかたち〉は、ほとんど「引き裂かれた愛」ではないかと思うことがある。

ヴェルディ『椿姫』やプッチーニ『ラ・ボエーム』『マノン・レスコー』は、女性が死ぬことによって恋人と引き裂かれる。『トゥーランドット』の場合は、リュウが愛するカラフのために自分を犠牲にする。

ヴェルディ『オテロ』やプッチーニ『カルメン』、ベルク『ヴォツェック』では、男性が心ならずも愛する女性を殺す。やはりベルク『ルル』のヒロインは、愛する男を次々に破滅させておいて、自分は切り裂きジャックに殺されてしまう。

諸般の事情で引き裂かれた愛を、死によって取り戻そうとする恋人たちもいる。ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』では、女性が先に死に、男性があと追い自殺する。プッチーニの『トスカ』は、その反対。ベルリーニの『ノルマ』やヴェルディ『アイーダ』のヒロインたちは、愛する男と処刑台にのぼることによって「愛死」を選びとる。

「愛死」の代表はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』だが、こちらは家父長制度に逆らった不倫の愛というくくり方もできる。ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』も同じ。『トリスタン』では夫の部下、『ペレアス』では夫の弟と愛しあってしまったヒロインは、恋人に先立たれ、生命力を失って衰弱死する。

敵対関係にある家の男女が恋仲になり、無理矢理引き裂かれるというパターンもある。たとえば、さきにリストアップした『ルチア』。原作はウォルター・スコット『ラマームーアの花嫁』で、一六六九年にスコットランドで起きた事件をもとにしているという。

レーヴェンスウッド城の城主エンリーコは、前の城主エドガルドの逆襲におびえている。妹のルチアは、こともあろうに当のエドガルドと愛し合っている様子。いくら兄がバックロウ領主のアルトゥーロと政略結構させようともくろんでも、言うことをきかない。

エンリーコは、エドガルドが心変わりしたという手紙を偽造してルチアに見せ、無理矢理アルトゥーロとの結婚を承諾させる。結婚式場にエドガルドが乗り込んできて、ルチアを激しくなじる。悲しみのあまり精神に異常をきたしたルチアは、初夜の床でアルトゥーロを刺し殺してしまう。ここで歌われるのが、有名な「狂乱の場」のアリア。ハイ・ツェーどころかさらに高いEs音が使われ、コロラトゥーラを駆使した十五分の長丁場である。

仲の悪い両家に引き裂かれる愛といったら、すぐに思い浮かべるのはシェイクスピアの『ロメオとジュリエット』だ。付帯音楽、歌曲、ピアノ曲などさまざまな形で音楽化され、オペラだけでも、グノーをはじめ十四曲あるというが、こんにちよく演奏されるのは、ベルリオーズの劇的交響曲とプロコフィエフのバレエ音楽ぐらい。

 ストーリーはよく知られているので省略するが、台詞をともなうベルリオーズの交響 曲では、2群の合唱隊が対立するモンタギュー家とキャピュレット家の役割を担い、コ ントラルトのソロはジュリエット、テノールはロメオ、バスはロランス神父の気持ちを代弁する。ジュリエットが、「ああ、ロメオ様、どうしてあなたはロメオ様なの?」と呼びかける有名なバルコニーの場で、ベルリオーズは美しい「愛の情景」の音楽を書いている。

恋人たちを実際に引き裂くのは、ロランス神父がジュリエットに飲ませた「一時的に仮死状態にはいる薬」だ。墓地でジュリエットを発見したロメオは彼女が死んだと思い込み、毒を飲む。目覚めたジュリエットも短剣を突き刺して恋人の屍の上に倒れかかる。この薬は、M.C.ルイスの暗黒小説『マンク』にも出てくる。もっともこちらは、よからぬことを考えた修道院長が、無垢の乙女を誘い出すために飲ませるのだが。

『ロメオとジュリエット』よりさらに過酷な運命に引き裂かれるのが、ドビュッシーの未完のオペラ『ロドリーグとシメーヌ』の主人公たちである。台本は、カテュール・マンデスが翻案したコルネイユの『ル・シッド』。ロドリーグは、スペインの豪族ビヴァール一族の長ドン・ディエーグの息子、シメーヌはドン・ゴメス率いるゴルマス一族の娘。『ロメオ』や『ルチア』と違い、両家から祝福された婚約者同士だった。

粗野なビヴァールの男たちがゴルマスの娘たちを凌辱しようとしたので、ドン・ディエーグはドン・ゴメスをたしなめるが、かえって罵倒される。名誉を辱められたドン・ディエーグは、息子にドン・ゴメスを撃つように命令する。愛する恋人の父を殺せと言われたロドリーグは逡巡するが、家の不名誉を晴らす方が先に立ったらしい。復讐はなしとげられ、シメーヌは、今度は瀕死の父親からの命令で婚約者に復讐する立場になる。ロドリーグはシメーヌに剣を渡して刺すように言うが、シメーヌは恋人を処刑台に送る方を選ぶ。しかし、言葉とは裏腹にシメーヌの心の中にはロドリーグへの愛が詰まっているらしい。

『ロドリーグとシメーヌ』は、ほんの一部を除いて完成されていたにもかかわらず、何故か破棄されてしまった。ネックになったのは台本で、「すべてが私というものの反対」だとドビュッシーは語っている。ボードレールやマラルメを耽読し、シェイクスピアでも懐疑的なハムレットのファンだったドビュッシーには、老父の受けた恥辱を息子が晴らす「家族愛」や、そのはざまで悩む男女の「純愛」は受け入れ難かったに違いない。

音楽もまた問題で、朗々と歌われるロドリーグとシメーヌの二重唱など、ドビュッシーらしからぬドラマティックかつ感動的な音楽で、そこがまた彼の気に入らなかった。歌劇場では、どうもたびたび歌いすぎる、とドビュッシーは指摘している。そうする値打ちがあるときしか歌ってはいけないのに。

そして実際に、『ロドリーグ』についで書かれた『ペレアスとメリザンド』で恋人たちは、「本当に歌いたいときしか」歌わず、愛をたしかめあったとたん引き裂かれてしまう。まるで、陶酔を拒否するかのように。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、作曲家をめぐる〈愛のかたち〉も大きく変わっていくのである。

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