【インタビュー】「人生流儀   ドビュッシーの光と影に自分重ね合わせ 美の理想を追う」(毎日新聞大阪版 2005年8月31日朝刊)文・奥田昭則(編集委員)

インクが匂い立つような刷り上ったばかりの本「ピアニストが見たピアニスト」(白水社)の帯に<現役のピアニストにして気鋭の作家が、心理面から技術面、時代の耳の変遷まで、6人の名演奏家(アルゲリッチやリヒテルら)の秘密を解きあかす>とあった。そのピアニストにして作家、大阪音楽大学教授の青柳いづみこさん(55)の人生流儀をじっくり聞きたくて、JR新大阪駅近くの居酒屋で2人だけの出版祝いをした。頭の回転がとても速い。毒舌。よくしゃべり、よく笑う。冷酒をおいしそうにあおった揚げ句、音楽と文学、フランスと日本、関西と東京の間で揺れる思いを驚くほど素直に明かしてくれた。

■台風復興支援チャリティコンサート

青柳さんと知り合ったのは、共通の知人が演奏した音楽会だ。その後、食事や、手紙のやりとりが何度かあった。フランスの作曲家ドビュッシーのピアノ曲演奏には定評がある。CDは聴いていた。だが、実演に接したことがなかった。

昨秋の台風23号で被害を受けた兵庫県養父市の復興支援チャリティコンサートを今年4月1日、大阪で開くと知り、聴きに出かけた。但馬地方は母方の出身地で、東京育ちの青柳さんは小2から大学まで夏冬の休みごとに過ごした「心の故郷」という。

母の実家はかやぶき。江戸時代・慶長年間から続く市の文化財で、同市宿南地区にある。幸い無事だったが、同地区は全戸の半数近く125棟が床上浸水した。青柳さんのファンで前日、市政策管理部長を定年退職したばかりの友田靖彦さんも駆けつけスピーチした。青柳さんは演奏の合い間に但馬の思い出を話し、ドビュッシーやラモーを弾いた。

たまっていた執筆の疲れが響いたのか、演奏の出来ばえは必ずしも良くなかった。パソコンの硬いキーはピアノを弾く筋肉にはとても悪いのだ。しかし、何としても自分の存在を、この世に刻印したいという渇きのような思いが胸に迫り、インタビューしようと、その場で決めた。

■恩師の評伝認められ

これまでに著書9冊、CD6枚を出している。ミステリーを題材にしたエッセー集や、ドビュッシーの評伝など、ピアノとペンの2足のわらじを履いた異色の書き手として注目されていた。

「けれど、ずっと売れなかった」と青柳さん。

本格的に世に出たのは恩師のピアニスト・安川加壽子さんの評伝「翼のはえた指」とみられる。1999年刊で吉田秀和賞を受賞した。

吉田さんは日本を代表する音楽評論家で、巨匠ホロヴィッツが83年初来日の時、そのピアノ演奏を「ひび割れた骨董品」と評して話題になった。受賞した縁もあって青柳さんは今年正月3日、鎌倉の吉田さん邸を初めて訪れた。

「ピアノ弾きにとっては雲の上の存在」だが、招待を感謝すると、次のように言われた。
「批評を書くので演奏家とは、なるべく距離を置くようにしているが、あなたはもう僕らの仲間なんだから遊びに来てもいいんですよ」

もちろん、ピアニストとしての活動を無視して言ったのではなかろう。だから書き手として認められたうれしさの一方で「複雑な思いがした」という。

青柳さんがピアノを習い始めたのは6歳から。恩師の安川先生は、神戸・深江生まれ。父が、当時のパリの国際連盟日本事務局勤務のため、生後間もなくフランスへ渡った。パリ音楽院卒業後、第2次大戦前夜に帰国。戦後日本に天女のように舞い降り、ピアノ音楽界をリードした。安川門下300人にとって、先生の教えは絶対だった。

安川先生のピアノ演奏の魅力を一言でいうと、「フランス的洗練。優雅で繊細。弾いている姿がすばらしい」。

ただ、安川先生の「演奏に個人的感情を持ち込んではいけない」という教えに青柳さんは苦しんだ。むしろ感情があふれ出るタイプだったからである。

「挫折の連続ですよ、私の半生は。なぜピアノやめなかったのかな」

ともあれ、安川先生の代講で13年前から、大阪音楽大学に年10回程度教えに来るようになった。意外なことに大阪の学生はピアノで旋律を歌うように弾くのがすごくうまい。何の抵抗もなく自分の気持ちを外に出せるのだ。教えることで、むしろ影響を受けたという。主張がはっきりしているため、レッスンしがいがあった。

■祖父の描写に愛情

安川先生の評伝を出版した翌年に手がけたのが祖父の評伝「青柳瑞穂の生涯」。日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、作家としての地位をほぼ確立した。

青柳瑞穂は、フランス文学の翻訳家、古美術品収集家として知られる。美にとりつかれた文人といえるが、孫娘から見た祖父の実像を酷薄と思えるほど突き放し、だからこそ、逆に深い愛情が感じられるように描いて、評判になった。

青柳さんが育ち、今も住んでいる東京・阿佐ヶ谷の家では戦前から昭和30年代にかけて「阿佐ヶ谷会」という文士の懇親会が開かれた。太宰治、井伏鱒二、外村繁らが集い、酒をくみかわしたことで知られる。

青柳さんは東京芸術大学大学院在学中にドビュッシー研究を始め、修士論文をまとめた。中学時代に「そは、やるせなき夢心地」で始まる歌曲集「忘れられた小唄」を知り、繰り返し聴いたのが最初だが、直接の動機は祖父の本棚に並んでいたドビュッシー関係の書物や楽譜という。

また、ドビュッシーの身分が階級社会フランスで下から2番目だったのに共感したのも動機という。ピアノ練習仲間には上流家庭の子女が多く、どこか居心地が悪かったのだ。

「ドビュッシーは“おフランス”の代表みたいにいわれ、高貴な作曲家と思われているけど、実は身分が低く、小学校にも行っていない。しかも彼自身が非常な貴族趣味の持ち主というところがすごく面白くて」

青柳瑞穂の孫娘という誇り、つまり精神の貴族の血をひいているという自負の半面、経済的には必ずしも上流の育ちではないと感じていたのだ。いわば、ドビュッシーの光と影に自分を見ていたのである。

■挫折感からの出発

青柳さんは大学時代、パリ留学をめざしていたが、声が出なくなる奇病で仏政府給費留学生試験を受験できず断念。大学院へ進学した。安川門下から毎年合格者を出していて、受験さえすれば、ほぼ合格だった。それだけに挫折感が強かった。

「あのころはめちゃくちゃ暗かった。お先真っ暗で」

大学院修了後、25歳でマルセイユに私費留学する。1975年から4年滞在し、ピエール・バルビゼに師事した。

「安川先生の友人で、ちょっと目は、ギャングの親分。ボルサリーノの帽子と太い葉巻が似合いそうな」

仏国立マルセイユ音楽院を1年で卒業後、伴奏や練習のピアニストとして雇われた。仕事の合い間に欧州各地を訪れ、独自にピアノ奏法の研究を続けた。

■祖母と過ごした地魂はいつも但馬に

但馬の祖母・宿南八重さんが留学中に死んだ。亡くなる前、一時帰国して看取った。祖母は阿部次郎著「三太郎の日記」に無垢の少女として登場する人で心から敬愛していた。その1人暮らしの祖母、そして但馬の自然の魅力にひきつけられ、青柳さんは少女時代から但馬こそ本当のふるさとだと実感していた。山や池、おいしい水。冬には30cmもの雪が降る。その後ダイヤモンドのように光る星空のすごさ。鮎を七輪で焼いて食べたり、しぼりたての山羊の乳を飲む。食べ物がすばらしいのだ。滞在中は但馬弁でしゃべり「但馬に来んされよ。ほな、さいなぁら」などと話した。

但馬の土は赤く、サラサラしている。雨が降っても濁らない。砂が下に沈んで、上に透明な水がたまり、近辺からシュルシュルと細い草が出ている。その全体の清涼感が気に入り「自分はこんなものを作りたい」とひそかに思っている。それがピアノか文章か、いずれにしても美の理想だ。

青柳さんは、戸籍上の名前は「いづみ」。この名前は祖父がつけてくれた。しかし、父と祖父の仲が悪く、小さい時から父は「いづみこ」と呼んでいて、自分でもそうだと思い込んでいた。

但馬の祖母の墓には、「いづみこ」と、自分の名前も既に刻んである。死後、魂は故郷の但馬に帰るつもりなのだ。

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