【インタビュー】「演奏・文筆活動25周年 青柳いづみこさん」(クラシックジャーナル 2005年11月号)聞き手・中川右介(音楽ジャーナリスト)

九月十六日に、築地の浜離宮朝日ホールで、「青柳いづみこ ピアノリサイタル演奏・文筆25周年~ラモーからドビュッシー~」が開かれた。

前半のラモーでは数曲弾くごとに、トークも入る。一番の問題はマイクだ、と青柳さんは言う。けっこう重いし、ひじを曲げて持っているだけで微妙なタッチに影響が出る。アーム式のスタンドを依頼しておいたのだが、リハーサルに行ってみたらハンドマイクしか出てこなかった。本当はロックの歌手などが使うヘアバンド方式がいいのだが、クラシックのホールには備えつけがない。

ある曲は、「うまく弾けなかったんで、もう一度」と二度弾いた。前日に『グレン・グールド発言集』を読み、ステージ・ピアニスト時代の彼が、「テイク2をやりたい」と思いながらついに言い出せなかった話に心ひかれたという。そういう意味ではちょっと変わったリサイタルだが、これが青柳流であり、前半のカーテンコールに3度も呼び出されるなど、そうした部分も含めたファンがついている。

「わたしのコンサートは、アンケートの回収率がすごく高いんですよ。みんな、ぎっしり書いてくれる」

言葉が投げかけられれば、聴衆としても、言葉を返しやすいという面が、確かにある
だろう。

リサイタルに合わせて、ラモーのクラヴサン曲をピアノで弾いたCD『やさしい訴え』(コジマ録音)も発売となり、また一九九〇年発行の初エッセイ集『ハカセ記念日のコンサート』も増補版として復活した(ショパン刊)。前号で紹介した青柳さんの新刊『ピアニストが見たピアニスト』(白水社)は、音楽書としてはベストセラーといえる七刷・一万二千部だそうだ。演奏家として、文筆家として、乗りに乗っている。

青柳さんとは、これまでも何度かコンサートの後の打ち上げに誘っていただき話す機会はあったが、酒の席でもあったので、とても活字にできない音楽業界裏話ばかりしていたような気がする。そこで改めて、CD発売をきっかけに「公式インタビュー」を試みたのだが、もともとこちらがラモーに造詣が深いわけでもないので、ついつい話は、音楽界、出版界の話になってしまい、オフレコ発言の連続。そのなかから、数少ない、「まともな話」を思い出してみる。

CDのタイトルのもとにもなった小川洋子の小説『やさしい訴え』を読んだばかりだったので、その話から。主要人物のひとりは、人前で弾けなくなってしまったためにクラヴサンを製作するようになった元ピアニスト。本当にそういうことはあるのだろうか。

「人の前では弾けない、というピアニストはいると思う。あの小説ほど極端かどうかは別にして、突然、弾けなくなるっていう感覚は理解できますよ。グレン・グールドもそうでしょう」

グールドの場合は、コンサートは苦手だったが、スタジオにこもって演奏するのは好きだった。でもこの小説の人物は、誰かが聴いていると思うと、弾けなくなる。そこで、根本的な疑問なのだが、ピアニストというのは、「その曲を聴いてもらいたい」から弾くのか、「自分がその曲を聴きたい」から弾くのか、どちらなのだろう。もちろん、両方の要素があるとは思うが。

「それは両方ですよ。わたしの場合、プロデューサー感覚もあります。弾いている自分と、それを聴いているもうひとりの自分がいます」

今回のCDの録音では、ミケランジェリばりに湿気で悩まされたという。録音は六月初旬、日本が一番湿っぽいときだ。ホールは田んぼの真ん中にある公共の施設で、常駐の人がいない。そのため、空調を入れるのにも、役所に電話をして係の人に来てもらわなければならない。担当の人が着くまで三十分。それから、実際に湿度が一パーセント下がり始めるまでが一時間――そんなエピソードを笑いながら教えてくれる。でピアノは、「古いピアノでありながら、よく歌える楽器」ということから、初期のカーネギーホールに備えつけられていた一八八七年製のニューヨーク・スタンウェイを借りて持ち込んだ。

収録曲は「クラヴサン曲集」「新クラヴサン曲集」「コンセールによるクラヴサン曲集」から抜粋。一日ごとに一つの組曲ではなく、すべて通しておこなった。必要に応じて、カバーテイクを録る。「実際に多く使われているのは、最終日のテイクです。この日が一番カラっとしていて、ピアノがかっと燃えるような音を出すようになって、装飾音もきれいにはいったし、自然に歌えた。わたしは、けっこうねばるほう。ねばって、ねばって、ねばる。それで、最後のほうが、いちばんいいことが多い」

このCDが編集部に届いたころ、ディスク評などを執筆している安田氏が打ち合わせに来たので見せたら、「ほー、ラモーですか、え、ピアノで」と驚いていた。いまどき、珍しい、のである。

CDのブックレットにも書いてあるが、現在はオリジナル楽器で演奏するのが主流になりつつあるので、ラモーをピアノで弾くのは異端のようだ。では、なぜ、ラモーなのか、なぜ、クラヴサン曲をピアノで弾くのか。

「だって、ラモーは舞台音楽で本領を発揮した作曲家で、クラヴサン曲にも、オペラやバレエに編曲されているものがある。もしかしたら、未来の楽器に夢をはせていたかもしれないし。私が師事した安川加壽子先生の門下では、ラモーをピアノで弾くのが当たり前でした。もともと、絶えていたクラヴサン演奏を19世紀末のパリで復活させたのは、ドビュッシーの兄弟子に当たるディエメールというピアニストだったんですよ。安川先生はその孫弟子」
どんな分野でもそうだろうが、伝統のある芸術の場合、どんな先生について教わるかで、将来の方向が決まるケースが多い。そして、生徒は師を選んでいるようでいて、実際には選んでいない。ほとんどが、人間関係のつながりで、師と出会う。その師が得意とするものと、自分の資質とが合っていれば幸福なピアノ人生のはじまりだが、ずれがあると悲劇になる。

そして、「時代」にも影響される。
「もし、いま学生だったら、わたしもクラヴサンで弾いたかもしれない。わたしの時代には、ピアノからクラヴサンに転向するのは、マイナスの印象があったんです。いまほど考え方が多様化していなくて、ピアノをやる以上は、ショパン、ラフマニノフ、そして目指すはチャイコンの一番、という絶対的なコースがあったから、それからはずれると、本当にはずれたって感じ。いまは何をやってもいいからうらやましい」

さらには、「肉体」にも。作曲と異なり、演奏するという行為は、まさに肉体運動である。訓練でどうにかなる部分もあるが、もって生まれた手の条件などは、どうしようもない。青柳さんもデビュー当時はドイツ音楽を弾いていたが、「手が小さい」と実感してやめたという。

ラモーが置かれている位置については、こんな不満も。その位置とは音楽史・音楽界における位置ではなく、レコード店の店頭での位置。

「ラモーはバッハやヘンデル、スカルラッティよりたった2歳年上で30歳ぐらい長生きしたのに、それで、クラヴサン曲はバッハの『インヴェンション』や『平均律第一巻』と同年代に書かれたのに、レコード店さんに行くと、器楽曲のRの棚のラフマニノフとラヴェルの間をいくら探しても、見つからない。ピアノで弾いたCDでも、古楽や音楽史のコーナーに置かれている。これじゃぁ、いったい誰が買うの?」

もうひとつの二十五周年である文筆活動のきっかけは、何だったのか。
ご存知の方も多いだろうが、青柳さんは骨董蒐集でも有名だったフランス文学者の青柳瑞穂を祖父にもつ。もともと、「本」を身近にして育ったせいもあり、「本を出したい」という思いがあった。

といって、祖父の人脈をたよって出すのはいやだった。小説を書きたいわけでもなかった。そこで、考えたすえ、音楽学の論文を書いてみよう、となる。

「わたしのように音楽高校出身者って、お勉強は中学どまりなんです。数1も半分ぐらいしかやっていない。ピアノだけの生活になるから。だから、本を書きたいとか、論文を書きたいと思っても、資料の調べ方も方法論も何もわからない」

この話を聞いて、美空ひばりを思い出す。彼女は芸能活動が忙しく学校に行けなかった。中学卒業間近、校長が「このままでは卒業させられない」と親を脅し、補習を受けさせ試験をして、ようやく卒業。彼女は勉強が好きだった。頭は悪くないので、やれば成績はよかった。校長もそれがわかった。しかし、「芸の道で頂点に立つためには学校に通っていてはだめだ」とも理解する。「高校くらい出ておいたほうがいい」という世間の常識を優先させると、世間並みの芸しかできない、今のアイドル歌手のようになる。

話を戻せば、「本を出す」という目標のため、青柳さんは一九八三年に東京芸術大学大学院博士課程に入学し、さらにフランスに渡り、パリ国立図書館で七ヶ月の資料研究。そして、八九年に「ドビュッシーと世紀末の美学」という論文で学術博士号を授与される。

だが、この論文をベースにしたドビュッシー論を本にしたいと思っても、なかなか実現しなかった。学者としても物書きとしても無名の人の、あまり売れそうもないテーマの本を出してくれる酔狂な出版社はなかった。そこでまず、読者層を開拓するために、エッセイを音楽雑誌などに書き始める。それがまとまったのが、最初に紹介した『ハカセ記念日のコンサート』。ところが、二千部がいつまでたっても売れない。ピアノの世界で本が売れるためには、ピアニストとしてスターである必要があった。

念願のドビュッシー論が本になったのは九七年。『ドビュッシー――想念のエクトプラズム』(東京書籍)である。ドビュッシー・シリーズと銘打った一連のリサイタル、ドビュッシーのCDのリリースも並行して続き、いずれも高い評価を得た。その後、師と祖父の評伝も書く。『翼のはえた指――評伝安川加壽子』(白水社)、『青柳瑞穂の生涯――真贋のあわいに』(新潮社)。エッセイや評論の執筆依頼はますます増えている。いまや、ピアニストとしてよりも物書きのほうが本業なのでは?

「収入ベースでいうと、教える(大阪音楽大学教授でもある)ことからの収入が六割、原稿料や印税が二割、ピアノを弾いていただくものが二割」

物書きとして専業で食べていくことの困難さは、同じ業界なのでよく分かる。長者番付に出るベストセラー作家ばかりが目立つので、物書きはみな優雅なように誤解されているが、そうではない。筆一本で食べている人は、ごく僅か。その証拠に、どの本にも著者の略歴のところに「現在の職業」が書いてある。つまり、本を書いているだけでは生活できない。

ピアニストも、CDの印税をもらえる人はごくわずかだという。リサイタルも自主公演が多く、冠公演で出演料をもらえたとしても、自分でチケットを買って招待するので赤字になることが多い。

「フランスでも、作家が新聞や雑誌に原稿を書いても、原稿料をもらえることはほとんどないんですって。だから、みんな大学の先生になっている」

現在、単行本の話が決まっている企画が六つ。専業作家でもかなりの売れっ子でなければありえない話だ。一方、コンサート活動もやめる気はない。

「わたしのファンは、音楽誌を読まない隠れクラシックファンが多いみたい。本でわたしを知った人がコンサートに来てくれるようになった。演奏も芸術の一環として聴いてくれる。今の状態、すごくめぐまれています」

演奏・文筆活動が、うまくリンクしているのだ。今後も両方を楽しみにしたい。

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