【書評】大野芳 著「近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男」(サンデー毎日 2006年7月2日号)

早く来すぎた理想主義者の肖像

洋楽黎明期の名指揮者近衛秀麿は、一八九八年、由緒ある近衛侯爵家の次男として生まれた。兄は三七年と四〇年に首相をつとめ、戦犯容疑で逮捕直前に自決した近衛文麿である。

音楽家だけみても、フルトヴェングラー、ストコフスキー、シベリウスはじめ錚々たる顔ぶれが登場し、東西にまたがる文化史絵巻をかたちづくっている。

しかし、オケ・ファンの興味は何といっても、詳細に検証されている新響(のちのN響)の設立と分裂事情に向けられるだろう。

日本初のプロ・オーケストラは、山田耕作が組織した日本交響楽協会である。山田に師事した近衛も自分の楽団を合流させ、文麿が経済的援助をしたが、山田との確執が表面化し、二六年に新響を結成する。東京交響楽団や東京フィルの設立にもかかわった近衛は、文字通り「日本のオーケストラをつくった男」だ。
近衛家秘蔵の資料やドイツの友人宛ての書簡から、断片的にしか知られていなかった近衛の海外での活動が明らかにされたのも、本書の功績のひとつである。

読者は驚くかもしれないが、指揮者は既存のオケを雇い、練習料、本番出演料などを支払ってデビューするものらしい。山田耕作が一八年にカーネギーホールでデビューしたときもそうだったし、近衛が二四年にベルリン・フィルを振ったのも同様の方式である。

しかし、三三年に定期演奏会を指揮したときは、ベルリン側からの依頼によるものだった。R・シュトラウスの『ドン・ファン』が終わった瞬間、老作曲家は舞台に歩み寄って近衛を祝福した。近衛が管弦楽用に編曲したシューベルト『弦楽五重奏』は賛否両論だったが、エーリヒ・クライバーは熱烈に賞賛した。

三八年、文麿率いる政府から「親善大使」に任命された近衛は、ベルリン国立歌劇場の指揮者をつとめたが、ユダヤ人音楽家を国外に逃亡させたためナチスに睨まれ、四三年以降はドイツで演奏できなくなった。

四四年には、パリで就職口のない若い奏者を集めて「オーケストラ・グラーフ・コノエ」を結成。メンバーには、クラリネットのジャック・ランスロなど、後の名演奏家の名も見える。

本書から浮かびあがってくるのは、よくも悪くも理想主義者の近衛像である。大戦が勃発したときベルリンにいた彼は、「どの国とも戦わずに平和国家を実現できないものかと夢想していた」。戦争終結直前には、日本人の大量自決を心配し、思いとどまるように呼びかけるビラを空から蒔くことを考えたというから、かなり現実ばなれしている。

近衛が亡くなるのは七三年だが、本書では終戦までの記述で全体の約八分の七を費やしているため、戦後の活動についてやや手薄になったことが惜しまれる。

戦前の近衛は兄の有形無形の支援と華族さまという出自が功を奏したのだが、戦後はそうはいかなかったし、民主主義にもなじまなかった。「先進的開拓者の積極性と、取り残された理想主義者の保守性のバランス」をうまくとれなかった「早く来過ぎた人」と総括するのは、近衛に私淑する指揮者福永陽一郎である。

大野芳著『近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男』(講談社)

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