【エッセー】「こころを言葉に」(日本エッセイスト・クラブ編 2007年7月刊)

アンブラッス

井山登志夫の『僕の女房はフランス人』(三修社)は、実地体験から異文化コミュニケーションについて考える、なかなかおもしろい本だ。

食通の街、ディジョンで夫人のマリー・テレーズと出会い、「一目惚れ」で結婚した井山青年だが、一年もたつとキス問題に悩まされるようになる。

フランスの夫は朝起きたとき、仕事に出かけるとき、帰ったとき、ベッドにはいるとき、必ず奥さんにキスをして「愛してるよ」といわなければならない。井山青年も最初のころはせっせとキスしていたが、月日がたつにつれ、だんだんその回数が減ってきた。

するとマリー・テレーズはむくれて、「もう私を愛していないの?」と言いはじめる。いや、別にそんなわけじゃなくて、心の中ではいつもそう思っているよ。思っているだけじゃなくて、行動に移さなければわからないじゃないの。

そんな言いあいがつづいたあとで、ちょっとタバコを買いに外へ出ようとした井山青年、マリーテレーズから「出かけるときにはキスをして『愛している』と言え」と言われてカっとなり、一大夫婦ゲンカに発展してしまう。

何でも口に出して言えばいいというものではない、だいいち、何度も何度もくりかえしていたら言葉の重みなんてなくなってしまう、「愛している」というのは大切な言葉だから、安売りしたくない、夫婦だったら、そんなことをいちいち言わなくてもお互いにわかりあえるではないか--というのが、井山青年の言いぶん。

そんなときたまたま、『フィガロ』紙で日本人の生活についてのルポを読んだ井山青年、「日本人は結婚前に一度『愛している』と言えば、その言葉が一生つづくことがある」というくだりにショックを受け、自分たちのケンカは単なる夫婦ゲンカではなく、その背景にフランス文化と日本文化の差異がかくれていたことに気づくのである。

口や態度であらわさなくても「以心伝心」でわかる、というのは、基本的に考え方、感じ方のベースを共有しているからこそ可能なのであって、さまざまな民族の集合体であるフランスのような国ではむずかしいかもしれない。

フランス人にとっては当たり前なんだろうが、あちらで新婚さんに出くわすと、あまりにあたりかまわず、数秒に一度ぐらいキスをしまくっているので、目のやり場に困ることがある。それほど熱烈に愛し合っていたはずなのに、一年後に会うと、もう別れてしまったときかされて拍子ぬけしたり。

友達から新しいカレシのことをさんざん自慢されたのに、一週間後に「あれ、どうなった?」ときくと、「あんなの、もうおしまいよ」と、悪口三昧になり、だったら最初っからもう少し慎重に考えればよいのにと思うこともある。こと恋愛に関するかぎり、深く静かに潜行させる日本のほうが絶対もちはいいと思う。

フランス人は、恋人同士ではなくても、挨拶がわりに両ほほにキスをする「アンブラッス」の習慣をもっている。文豪の書簡などで、最後に「あなたを抱擁する」という一行を目にして、思わず髭面同士が抱き合っている光景を思い浮かべてしまったりするのだが、この「抱擁」が「アンブラッス」のことで、そもそも夫婦や恋人以外に抱き合う習慣もキスする習慣もない日本人には、ピンとこない。

実際にフランスで生活していると、この「アンブラッス」のタイミング、どちらのほほを先に差し出すか、どんな角度か、そもそも「アンブラッス」をするか握手だけですませるのか、というようなことで、別れ際に人知れず思い悩む。

フランス人の友達にきくと、別に規則はない、したいと感じたらすればよい、というのだが、そうもいかない。こちらが「アンブラッス」しようとすると向こうが手を差し出したり、向こうが「アンブラッス」の動作にはいったのにこちらが手を出してしまったり。、トンチンカンはしょっちゅうだ。

フランス人にも個人差があり、親しい間柄でも握手ですませる人、初対面なのに「アンブラッス」する人などさまざまである。こちらは、自分が相対しているのは、いわゆる「開かれた」マインドの人か、「閉ざされた」人なのか、というようなことをとっさに判断しなければならない。

つまり、民族の文化という”差異”に個の”差異”が加わることになる。

地域の”差異”もある。私が留学したマルセイユは、人間関係にほとんど垣根のない土地柄だった。ピアノの師匠、ピエール・バルビゼなどはその典型で、マルセイユ音楽院の院長という要職にありながら、音楽院の職員とも、生徒たちとも「アンブラッス」する。これは、たとえばパリ音楽院などではありえないそうで、マルセイユの習慣に従って生徒のほうから先生に「アンブラッス」を求めたりしたら顰蹙を買うにちがいない。

「アンブラッス」のふれあい方、キスの仕方も千差万別で、ほほを合わせるだけで唇はふれない人にでくわすと、私の肌に細菌でもついていると思っているのかしら、と少々気を悪くするし、逆に、音をたてて強いキスをする人に会うと、キスマークがつかないかしらと心配になる。唇をふれないのに音だけ高くたてる人は、何となくうわっつらだけのつきあいのように感じるし、その”瞬間”の心理もさまざまにうつろう。

留学体験が「アンブラッス」からはじまったものだから、それが普通だと思ってしまっておもしろい事件にも出くわした。

留学当初、まだ下宿にピアノがなくて音楽院で練習していたことがある。バルビゼは院長先生なので、院長権限で音楽院全体の鍵を貸してくれた。重々しい鉄の門の鍵、建物の入り口の鍵、院長室の鍵、練習室の鍵・・・。鍵束にじゃらじゃらついている。

音楽院が閉まっている日曜日など、その鍵を使って中にはいるわけだが、玄関にはぬうっいと図体の大きな門番がいて、この人物が、私が着いたとき、練習を終えて帰るとき、決まって「アンブラッス」するのだ。

そういうものだと思って応じていたが、次第に奇妙なことに気づいた。友愛の「アンブラッス」なのだから、当然、左右のほほにキスする。しかし、その門番の「アンブラッス」は回を重ねるごとにだんだん中央、つまり唇の方に近づいてきたような気がしたのだ。「アンブラッス」なら唇をふれるかふれないかの軽いキスのはずなのに、こころなしか、肌にふれる時間も長くなったような・・・。

あるとき、バルビゼ夫妻と会食しているときに何気なくその話をしたら、夫妻の顔色が変わった。
「『アンブラッス』する門番?! ありえない!」
翌朝、マルセイユ音楽院のセクハラ門番は、院長先生からクビを申し渡された。

フランス人とつきあう上で、「アンブラッス」と同じように判断に困る例としては、フランス特有の「ヴー・ヴォワイエ(相手にあなたと呼びかける)」と「チュ・トワイエ(君、お前と呼びかける)」があげられる。これがまた、「アンブラッス」する間柄だから必ず「チュ・トワイエ」するともかぎらないのでややこしい。
家族の間ではもちろん「チュ・トワイエ」だし、友人の間でもそうだ。子供に対しても「ヴー・ヴォワイエ」は使わない。問題は、上下関係がある場合だ。ピアノの先生は、生徒と「ヴー・ヴォワイエ」で通す人と、途中から「チュ・トワイエ」に移行する人がいる。生徒の側ではほとんど例外なく「ヴー・ヴォワイエ」だが、親しくなってしまうと友達のように「チュ・トワイエ」するケースもなくはない。

これまた規則があるわけではなく、勘にたよるしかないのだが、私はこの判断が極端ににぶく、相手が親しみをこめて「チュ・トワイエ」しているのに、しつこく「ヴー・ヴォワイエ」で返し、ついに「これからはチュ・トワイエで話せ」と命令されることがある。 あるとき、もう三十年もの間「ヴー・ヴォワイエ」で話してきたバルビゼ未亡人から、突然こんなふうに言われてしまった。

「お前は私に対して他人行儀にヴー・ヴォワイエしつづけている。お前は私のことを愛していないのであろう」

言われた私はあわてた。だって、バルビゼとは亡くなるまで、もちろん向こうは「チュ・トワイエ」だが自分は「ヴー・ヴォワイエ」だった。また、もし自分が「チュ・トワイエ」に移行したらバルビゼは失礼な奴だと思っただろう。

そんな先生の奥さまだから、当然「ヴー・ヴォワイエ」だと思っていた。だからといって、もちろん愛情をもっていないわけではない、彼女のことはフランスのお母さんのように感じているのだ、そんなことはお互いに顔を合わせていたらわかるではないか・・・。 フランス人は思っているだけでは足りなくて、口に出して言ったり行動にあらわさなければ理解してくれない。

というわけで、私もまた、冒頭の井山青年の誤ちをくりかえしていたことになる。

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