【プログラムノート】「天と地のポエジー」(東京交響楽団定期演奏会プログラム 2008年2月号)

ラヴェル『ラ・ヴァルス』もドビュッシーの『ラ・メール(海)』も、どちらかというと難解な部類にはいる音楽かもしれない。

『海』の第1楽章「海の夜明けから真昼まで」は、ワーグナーの『ラインの黄金』を思わせる波のゆらぎで始まる。津波がかすかに盛り上がるようなコーラングレの循環主題があらわれるが、すぐに絶えてしまう。ドビュッシーによくある呼びかけモティーフの重ねあわせで音楽はいったん高揚するものの、フォルテはたった一小節だけ。フルートとクラリネットの重ね合わせ、『牧神の午後への前奏曲』でもおなじみの三連音符のモティーフなどがたちあらわれるが、音楽を暴力的に支配するには至らない。『牧神』のように、聴き手の意識に定着するにじゅうぶんな長さをもったメロディではないのだ。

1903年、前年に唯一のオペラ『ペレアスとメリザイド』の初演を成功裡に終えたドビュッシーは、新しい試みとしてエドガー・ポーの『鐘楼の悪魔』にもとづくオペラ(未完)を書きながら、『海』の作曲にとりかかった。のちにドビュッシーは『鐘楼の悪魔』の合唱の取り扱いについて、「私がつくりたいのは、何かもっとばらばらで、もっと分割され、もっと互いに独立し、もっと手応えのさだかでないもの、外見は無機的に見えてしかし実は根底で秩序づけられている何か、なんです」と語っているが、この構想はそのまま『海』に活かされたと言ってよいだろう。

『ラ・ヴァルス』もまた、弱音器をつけたコントラバスの、何やらもやもやとしてわけのわからない海鳴りのようなとどろきではじまる。やがてワルツらしきものの断片が漏れ聞こえてくるのだが、つかまえようとするとするりと抜けてしまい、なかなか実態を把握できないところは『海』に似ている。しかし、ひとたび全貌をあらわすと、ラヴェルのメロディはドビュッシーのそれよりはるかに息が長い。

ラヴェル晩年の弟子ローザンタールによれば、『ラ・ヴァルス』は作曲家のもっともお気に入りの作品だったという。彼は『ラヴェルその素顔と音楽論』の中で、「これは悪魔のダンスだ」という師の言葉を書きとめている。「創造者のなかでも音楽家の地位が一番高いのは、ダンスの音楽を作曲できるからだ。(中略)悪魔とともにできる最高の芸当は、悪魔が抵抗できないようなダンスを踊ることだよ」

ワルツはあらゆる作曲家を誘惑する形式だが、ほんとうに成功したのはヨハン・シュトラウスだけだ、とラヴェルはつづける。「彼は奇蹟的に、みなが書きたいと思ったワルツを作曲し得たのだ。『美しく青きドナウ』だよ」

楽譜には、こんなコメントが書きつけられている。「逆巻く雲の間から稲妻が光り、ワルツを踊るカップルたちを垣間見せる。雲は次第に消え、旋回する群衆でいっぱいの巨大な広間があらわれる。ステージは次第に明るくなる」

作曲家の念頭にあったのは、1855年ころのウィーン宮廷の舞踏会風景らしい。作品も当初は『ウィーン』と呼ばれていたが、1920年春、ロシア・バレエ団の主催者ディアギレフに2台ピアノで弾いてみせたところ、「傑作だが、バレエではない。これはバレエの肖像、バレエの絵画だ」と評されたために、怒ったラヴェルは楽譜をひっこめてしまい、タイトルを改めてオーケストラ組曲の形で初演している。

『ラ・ヴァルス』が『ウィーン』と呼ばれていたように、『海』の第1楽章「海の夜明けから真昼まで」も、当初は「サンギネール島の美しい海」と名づけられていた。このタイトルは、友人の作家カミーユ・モークレールの同名の短編からとったもので、小説では海の嵐と船の難破が扱われているという。

ところで、『海』の表紙を飾った葛飾北斎「神奈川沖浪裏」の原画にも大波に翻弄される3艘の小舟と必死で櫂を操る漕ぎ手の姿が描かれているのだが、不思議なことに、表紙に使った図柄からは舟がとりのぞかれている。

『海』の初演は、1905年10月15日におこなわれた。シュヴィヤールの指揮が不十分だったこともあり、作品は賛否両論を巻き起こした。どちらかというと否定のほうが多かったかもしれない。3年前に初演されたオペラ『ペレアスとメリザンド』は多くのドビュッシー党を生んだが、同じことをくり返したくないドビュッシーが先に進みすぎてしまったために、多くの聴衆は取り残されたような思いを味わったのだ。

サティ率いるアルクイユ楽派のアンリ・ソーゲもその一人だ。私は彼から、『海』はあまりにも難解で、『ペレアス』に親しんだ耳には理解できなかったときいたことがある。

やはり『ペレアス』の抒情性を深く愛した「ル・タン」紙の評論家ピエール・ラロは、「ドビュッシーの絵画的な作品に耳を傾けながら、私は、自然を前にではなく、自然の複製を前にしているという印象を持った。すばらしく繊細で、創意に富み、器用に細工された複製だが、それでも複製にかわりない・・・。私には海が見えず、聞こえず、感じられない」と書いて、ドビュッシーを激怒させた。
この批評はどこか、『ラ・ヴァルス』を初めて聴いたときのディアギレフのコメントを思い起こさせる。

ラヴェルの目的は、ウィンナワルツを20世紀に再現することではなかった。古きよき時代へのノスタルジー、彼の意識のスクリーンをかけめぐるワルツを、激しい旋回に託して表出することだった。そしてドビュッシーにとっての『海』も、彼がいったん記憶の中にとりこんだ自然の、音による転写だった。それは、ただ見ただけの海でも、聞いただけの海でも、泳いだだけの海でもなく、全身全霊で追体験し、再創造された海なのだ。

1913年になってドビュッシーは、「音楽は、まさしく自然のいちばん近くにある芸術である」と語っている。画家や彫刻家も自然を翻訳しようと試みるが、結局はたったひとつの様相、たったひとつの瞬間しかつかまえられないし、定着させることができない。ひとり音楽家だけが、「夜と昼、天と地のすべてのポエジーをそっくりとらえてその雰囲気を再構成し、その巨大な鼓動を脈打たせる」という特権をもっている。

今宵の客席もまた、ワルツの旋回で揺れ、海によって満たされますように。

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