【巻頭随筆】「 リンカーンと作家と音楽家」(月刊潮 2009年7月号)

エドガー・A・ポーとエイブラハム・リンカーンが同い年なこと をご存じだろうか?

今からちょうど二百年前、一八〇九年二月十二日にケンタッキー 州の貧しい農民の息子として生まれたリンカーンは、六〇年に第十 六代アメリカ大統領に選出され、南北戦争のさなかに奴隷開放宣言 をおこなうが、戦争集結の直後、劇場で狙撃されて死亡した。

ポーは一月十九日、北米のボストンで旅役者の息子として生まれ た。『アッシャー家の崩壊』など怪奇小説を発表するいっぽう、 『モルグ街の殺人事件』で探偵小説の基礎をつくり、壮大な宇宙詩『ユーレカ』を書き、評論『詩の原理』もものしたが、貧困と酒乱とは縁が切れず、四九年十月、泥酔して行き倒れの状態で発見され、そのまま亡くなった。

偉人として語り継がれるリンカーンと、破滅型の作家ポーではずいぶん違うように思われるが、ポーが詩や小説の世界に起こした革命も、それまでのタブーを破ったという意味では、決して無視できない力をもっている。

本国でのポーが二流の群小作家と思われていた一八四〇年代、彼をいち早く紹介したのはフランス象徴派の始祖ボードレールである。ポーの短編や詩に、自分と同じような「奇異なものへの偏愛」を見出して狂喜したボードレールは、十七年間に千六百ページもの訳業をなしとげ、マラルメやヴァレリーなど象徴派の詩人たちに多大な影響をもたらした。

私が研究する作曲家ドビュッシーも、生涯を通じてポーに魅了された一人である。若いころからポーの怪奇小説を耽読しており、一八九〇年ごろ、『アッシャー家の崩壊』にもとづく交響曲を計画したらしいが、これは形にならなかった。

一九〇二年に唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』を上演したあと、ドビュッシーが真っ先に取りかかったのは、ポーの『鐘楼の悪魔』にもとづくオペラだった。何かも秩序立てられたオランダの町に巨大なハープを抱えた悪魔がしのびこみ、教会の鐘つき堂でお午の鐘を十三回打ってしまったものだから、村に大混乱が起きるという笑劇である。

こちらも形にならなかったが、一九〇八年からとりくんだオペラ『アッシャー家の崩壊』では、自身の脚色による台本と全体の三分の二ほどの音楽を残した。ポー生誕二〇〇年に後押しされ、来る九月二十四日、東京の浜離宮朝日ホールでコンサート形式による上演が実現する。

印象派の創始者と言われ、夢のように美しい音楽を書いたドビュッシーと、おどろおどろしい作風のポーでは、これまた違和感をおぼえる方も多いだろうが、ドビュッシーの目的は「『アッシャー家』における苦悩の表現」を通して音楽芸術に貢献することだった。

「私は、『ペレアスとメリザンド』の作曲者としてだけ後世に判断されたくないのです!」というドビュッシーの絞り出すような言葉は、芸術家というのは、どんな高みに達してもなお新しい道を探し求めるものだということを我々に知らせてくれる。

2009年7月13日 の記事一覧>>

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