【連載】「酒・ひと話 第2回」(読売新聞 日曜日版 2009年10月11日)

文士と酒

父方の祖父は青柳瑞穂というフランス文学者である。モーパッサンの翻訳などでわずかに名が残っているが、骨董蒐集家としての方が記憶されているかもしれない。彼は、井伏鱒二率いる「阿佐ヶ谷会」に、私が今も住む家を会場として提供していた。

阿佐ヶ谷会は中央線沿線の貧乏文士たちの集まりで、今年生誕百年を迎えた太宰治も戦前は熱心な出席者だった。
仲間うちでの太宰は、大酒飲みというよりは大食漢として知られていたらしい。芥川賞作家の小田嶽夫によれば、井伏が太宰と小田を連れて青柳瑞穂の家に行ったところ、すき焼きがふるまわれた。 太宰は他の二人が遠慮して手を出さない肉を一人でぱくぱく食ってしまった。

そういえば、高校入学まで青柳家に寄宿していた親戚も、太宰は夕食がすき焼きのときに限ってどこからともなくあらわれ、肉をあらかた平らげるので、子供たちに評判が悪かったと回想している。

井伏と小田は昭和十六年に文士徴用で南方に行ったが、太宰は肺浸潤で不合格になった。翌十七年、太宰の他、上林暁、木山捷平など東京に残った阿佐ヶ谷文士で奥多摩にハイキングに出かけている。

立川駅に集合すると、太宰の着物のたもとがばかにふくれている。木山がただすと、本屋で文庫本を二~三冊買ったのだと言った。青梅線の沢井で下車し、河原を歩きながら、写真を撮ったり、太宰が同伴した書店員が持ってきた海苔巻きを食べたりした。

遠足の終わりは、御獄の玉川屋という、今も残るそば屋での宴会である。鯉のあらいを肴に地酒を飲み、戦地にいる井伏と小田に寄せ書きをしたためた。九時までたらふく飲み食いしたのに、帰りの車中、太宰はたもとからにぎり飯を出して一人で食べていたという。ふくれの元は文庫本だけではなかったのだ。

何年か前、評論家の川本三郎氏、岡崎武志氏など阿佐ヶ谷文士大好きの面々で奥多摩遠足を再現したことがある。
玉川屋は大正四年創業で、明治時代の民家を活かした茅葺き屋根である。太宰がもたれて写真を撮っている欄干もそのままだし、広間には阿佐ヶ谷文士たちの色紙も飾られていて、木山が八杯もそばをおかわりしたこともわかるが、とくに宣伝されているふうもないのがよい。

奥多摩の名水で仕込まれた銘酒澤乃井は田舎風のそばによく合う。杯を重ねながら亡き文士たちをしのんだ。

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