「わたしが選ぶ 日本の文化遺産」(芸術新潮 2010年1月)

ドラマの生れる家 旧青柳瑞穂邸

旧青柳瑞穂邸父方、母方と、身近なところで文化財には事欠かない。

私が現在も住んでいる東京杉並の家は、亡祖父にあたる青柳瑞穂が昭和2年から住んでいたものである。もともとは、祖母の実家が持っていた貸家だった。空襲にもあわなかったので、玄関と母屋、庭は当時のまま残っている。ここは、「阿佐ヶ谷会」といって、井伏鱒二を中心とする中央線沿線に棲息する貧乏文士の会に会場として提供されていた。

戦前や戦中には、奥の書斎に井伏をはじめ太宰治、上林暁、外村繁、木山捷平らが集うだけだったが、戦後は規模が大きくなり、玄関脇の六畳とつづく八畳のふすまを取り払って使った。この座敷に総勢十三名が重なりあうようにして座っている写真がある。

詩人の蔵原伸二郎は瞑想にふけり、井伏は静かに盃をはこび、フランス文学者の辰野隆は空になった盃をふりかざし、火野葦平は酌をしようと身を起こす。

上林と中野良夫、滝井孝作はおだやかに笑い、木山はむずかしい顔をしてビールのグラスを干し、小田嶽夫は頭をかき、祖父はカメラマンを指さして何ごと言おうとしている。

フランス文学者の河盛好蔵によると、文学の話などむずかしい議論はせず、ひたすら酒を飲む会だったようだ。真っ先に酔うのは隣の辻に住んでいる外村繁で、口鼓を打ってひとしきり能の真似をやったかと思うと、かあちゃん、かあちゃんとつぶやきながら帰ってしまう。必ず他人の下駄をはいて帰る名人でもあった。

父方のご先祖さまはデカダンぞろいだが、母方はまじめ一方の禅坊主である。

祖母の兄宿南昌吉は、京都帝大医学部に学び、安倍能成や阿部次郎、魚住影雄、岩波茂雄など明治の哲学青年の仲間うちにいた人だった。わずか二十六歳で亡くなり、岩波が興した書店から遺稿集も刊行されている。祖母も彼らのマスコット的存在で、阿部次郎『三太郎の日記』に”無垢の少女”として登場する。

祖先は、豊臣秀吉の山陰征伐の折りに滅ぼされた豪族で、領主は城に火を放って自害したが、乳母が世継ぎの赤ん坊を抱いて逃げ、ほとぼりがさめたころに戻ってきて百姓になったという大河ドラマのような話が伝わっている。曾祖父の代には村長をつとめたが、跡取り息子も、母にとった養子も夭折して家には女だけが残った。

兄の遺言で結婚した夫にも死に別れた祖母が八九年の生涯を通じて守ったかやぶき屋根の家は、兵庫県養父市の小さな集落に今も残っている。江戸時代中期の民家で、母屋と別棟がコの字型につながり、裏山を借景とした枯山水の庭園は雪舟を模したものだという。

平成二十年に兵庫県の文化財に指定されたが、没落旧家の想いは、果たして鎮められたのだろうか。 

2010年1月13日 の記事一覧>>

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