【特集】「ドビュッシーを愉しむ」(音楽の友 2012年2月号)

ドビュッシーを想う―色彩と律動する時間の音楽

クロード・ドビュッシーを語る人が必ず口にすることに、彼の異様に突き出た額がある。 レオン・ドーデに「インドシナの犬」のようだと言われたおでこ。 そこには、ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》全3幕が詰まっていて、ピアノで弾き語りすることができた。

ドビュッシーは、彼自身の表現によれば、「1音符書くごとに音楽の国の検察官に追いまわされた」人である。パリ音楽院在学中、教室のピアノで、和声法的には禁じられていた平行和音を駆使して即興演奏をおこない、級友たちの度肝を抜いたエピソードは強烈だ。非難されると、今日の不協和音は明日の協和音だとうそぶいてみせた。

彼は革新的な語法で20世紀音楽への扉を開いたが、その音づかいは、専売特許のような全音音階をはじめ、11や13の和音など、高次自然倍音列の中にほとんどそっくりおさまるという。
つまり、耳に心地よいのである。

彼の革命は、あくまでも聴覚的自然の範疇にとどまった。ストラヴィンスキーを愛しながらも、「彼はおがくずで音楽をつくろうとしている」と警鐘を鳴らした。ワーグナーに反旗をひるがえしつつも、晩年のスタイルに至るまで、実はワーグナーの亡霊から逃れられなかった。

革新性と保守性の奇妙な混淆。前衛至上主義からポスト・モダンを経て、 音楽は再びドビュッシーのもとに戻ってこようとしている。

ドビュッシーは印象派の絵画と並べて語られることが多いが、 実際には象徴主義の文学運動と深いかかわりをもっていた。 象徴派の大詩人マラルメの火曜会に出席した唯一人の音楽家だったし、《牧神の午後への前奏曲》をはじめ、 ボードレールやヴェルレーヌ、アンリ・ド・レニエやピエール・ルイスたちのテキストによって多くの作品を書いた。

かといって、ドビュッシーが仲間たちの「言葉」をすべて「音」にしたと思ったら大間違いだ。 彼ほど「音」と「言葉」の領域にこだわった作曲家も少ないだろう。ドビュッシーのためにテキストを書き、何度も書きなおしを命じられたあげく、「音楽が乗らないから」という理由で一音も書いてもらえなかった詩人たちも多い。エドガー・ボーにもとづく未完のオペラ《アッシャー家の崩壊》では、ドビュッシー自身が3種類もの台本を作成したが、書いた音楽は全体の3分のーにとどまっている。

私は仕事が遅いのですというのがドビュッシーの口癖だった。たしかに、唯一のオペラ《ペレアスとメリザンド》は上演までに9年、 管弦楽のための《映像》は7年かかっている。いっぽうで、ピアノのための不朽の名作「前奏曲集第1巻」はたった2か月で書いてしまったのだ。

ショパンの弟子といわれるモーテ夫人に手ほどきされ、ローマ留学中にリストの演奏を目のあたりにしているドビュッシーは、2人のピアニズムを作曲語法に転換させ、新たな地平線を開いた。《映像第1集》を仕上げた彼は、エディターのデュランにあてて 「ショパンの右かシューマンの左……ピアノ音楽の歴史にしかるべき位置を占めるだろう」と書いた。「12の練習曲」を仕上げたときは、この音楽は、演奏の絶頂からみおろしているのだと豪語した。1世紀を経たこんにちでもその価値は減ずるどころかさらに高まっている。

ドビュッシー音楽の本質は、デュランに宛てた手紙の一節 「私はますます、音楽とは色彩と律動する時間であると確信するようになった」に要約されているように思う。

色彩は創り手や聴き手の外にあるものではない。心のうつろいや惑い、喜びと哀しみ。
律動もまた、ひとの内側にある。心臓の鼓動、筋肉の躍動、言葉と思索のリズム。

ドビュッシーは、人聞のすべての思いと感覚を解放し、それらがないまぜになったものを音響とリズムに託した。 それは、古典も近代も現代も含めての「書法」から解放された真に自由な音楽として、それ故にひとつの謎として、今もなお理解と解明を待っている。

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