【書評】古屋晋一「ピアニストの脳を科学する」

中央公論2012年5月号 書苑周遊 新刊この一冊

目にもとまらぬ速さで鍵盤をかけめぐるピアニストの指先。どうしてあんなふうに弾けるんですか? ときかれる。いや、かけめぐり方にもいろいろあって、私とアルゲリッチではオリンピックと国体選手ぐらいの開きがあるんだが、とにかくピアノは四歳から稽古しているので、どうして弾けるのかよくわからない。

本書をひもとくと、「頭の頂点より少し前のあたりに、指の筋肉に『動け』という指令を送る神経細胞」があるそうだ。そうなんだ。自分の頭のそのあたりをそっと押さえてみる。しかもその神経細胞は、プロとアマチュアでは動く数が違い、プロのほうが数が少ない、つまり省エネしているという。なるほど。大リーガーのイチローも適当に手抜きしてるもんなあ。

管楽器や声楽とちがって、ピアノの稽古は幼少のうちに始める。
ある研究によれば、同じ練習時間でも、十一歳までに行ったほうが運動能力が発達するらしい。 残念、もう間に合わない! 音楽家の脳には、音と指の動きをつなぐ以外に、別の感覚を結びつけるしくみも備わっている。たとえば、他のピアニストが演奏する映像を音を消して見せても、脳内では音を聴くための神経細胞が活動しはじめる。つまり、目から得た情報を音に変換する回路があるという。すごい! と思ったが、よく考えたら自分もそうだった。

音楽家の脳はまた、感情の伝達に敏感なので、他人の話し声に表れる感情の変化を聞き取る能力に優れているという。私などは、心にもないことを話す人の前では身体の具合が悪くなる。本書はこんなふうに、豊富な症例と実験結果をもとに、ピアニストの驚くべき能力を脳科学の面から、門外漢にもわかりやすく解明してくれる。

嬉しかったのは、音色の変化のこと。
私たちは経験則的に、鍵盤をなでたりさすったり、で音色が変化することを知っている。しかし、物理的には猫が歩いても同じ種類の音しかしないはずだと言われ、悔しい思いをしてきた。ピアノは、鍵盤の先についているハンマーが弦を叩くことで音が出る。最近の研究では、力をこめて弾いたときとやわらかく打鍵するのではハンマーのしなり方がわずかに変化することがわかった。さらに周波数分析によって、タッチ次第で倍音も変化し、それは人間の耳でも聞き取れる範囲内であることが証明されたという。ドビュッシー弾きの私など、その「わずかな変化」が商売道具なんである。

三歳からピアノの稽古を始めた著者は、過度な練習で手を傷めたことをきっかけに、 ピアノ演奏の脳と身体の働きに興味をもつようになった。本書では、腱鞘炎やジストニアなど、多くの演奏家や学習者が苦しむ手の障害についても多くのページが割かれている。障害の多くは神経的なものがかかわっており、それだけに根治がむずかしいが、 本書では「感覚と運動をつなぐ脳の回路を正常な状態に戻すことを目指したトレーニング法」も示される。この分野の「研究はともすれば、『実験をし、データを解析し、論文を書く』」ところで終わってしまう、と著者は書く。しかし、研究は実際の演奏に役立つのでなければ意味がない。「研究の成果を、音楽家の幸せにつなげたいという想いが、私が本書を執筆するに至った動機です」 というあとがきの一文には胸を打たれる。

著者も書くとおり、ピアニストは「感性豊かな芸術家であるとともに、高度な身体能力をもったアスリート」でもあり、 高度な知性をそなえた「世にもまれな存在」である。しかるに、その多くがふさわしい活動基盤をもたず、低収入に苦しみ、 一流音大の大学院を修了した者ですらコンビニでバイトしなければならない現状を、 政府の文化関係者は認識しているのだろうか。

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