【書評】「どこまでがドビュッシー?」中国新聞 2014年11月16日 評・青澤隆明(音楽評論家)

作曲家の領域問い掛け

地図に沿って進むのは、地図の上を歩くこではない。紙上と風景は別で、実感はさらに違う。

クラシックの演奏家は楽譜を前提とする。作曲家が残したよるべき真実の在りかとして。では、どこからが演奏に託された自由の領域か。そもそも音楽はどこまでが作曲家の世界なのか。ピアニストで文筆家の著書がこの問題をさまざまな角度から探ったのが本書だ。

「いくら楽譜を完成させても、演奏しなければ作品にならない」とまず書著は言う。「作曲家と演奏家をむすぶ媒体となる楽譜は、単なる記号にすぎず、きわめて曖昧で、きわめて不完全な伝達手段にすぎない」。楽譜や原典の尊重は1930年以降の潮流で、著書がピアノを始めた時代もそれが大勢だったという。

ところが、自動ピアノのロールに残されたドビュッシーの自作録音は楽譜通りではない。ラフマニノフの録音もそう。ショパンは折に触れて譜面に手を入れた。出版には写譜のミスも少なくない。

さて、「アッシャー家の崩壊」はドビュッシーが死の前年まで取り組んだ未完のオペラ。校訂者で作曲家のオーリッジが補完して上演したが、その補筆部分が著者には「『ドビュッシーの音』には聞こえない」。

オーリッジはドビュッシーの他の自筆スケッチにも補筆、高橋悠治がそのピアノ曲を日本初演した。作曲家生誕150年の2012年のことだ。これを機に著書は、グールドの実験性、ジャズの大西順子との対話、即興の精神、コンクールやゴーストライター事件にも触れつつ、演奏解釈の問題をあらためて論じていく。

24の章の話題は音楽の調性のように色とりどり。しかも読みやすい。月刊誌の連載が基になり、2年の間の出来事がアクティブに語られていくので、多様な実地見聞や挿話に臨みつつ著書の探索を追う楽しみがある。問い掛けは多角的だ。

では、演奏者はどう弾くか。聴き手はどう受け止めるか。さて、ここからがドビュッシー。この先こそ、音楽が生まれる時間だ。

どこまでがドビュッシー?
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